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東京地方裁判所 平成8年(ワ)25603号 判決

原告

森川綾子

外一名

原告ら法定代理人相続財産管理人

森川綾子

右訴訟代理人弁護士

堤浩一郎

被告

株式会社わかしお銀行

右代表者代表取締役

佐野幹雄

右訴訟代理人弁護士

渡邊洋一郎

篠連

瀬戸英雄

渡辺潤

主文

一  原告らの請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第一  請求

被告は、原告らに対し、金四一〇万円及びこれに対する平成八年九月一二日から支払済みまで年1.350パーセントの割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

一  本件は、限定承認をした相続人である原告らが、被告のした被相続人の連帯保証債務と定期預金払戻債権との相殺について、これは限定承認の申述受理後に行われたから無効であるとして、相殺により消滅したとされる定期預金額の返還を求めた事案である。

争点は、相続債権者である被告は、限定承認の申述受理後に弁済期が到来して相殺適状に達した被相続人に対する債権債務を相殺することができるかどうかである。

二  前提となる事実(当事者間に争いがない。)

1  原告らは、いずれも平成七年六月一〇日死亡した被相続人森川慶利(以下「慶利」という。)の相続人であり、慶利の相続人は、原告らのほかにはいない。

被告は、銀行業を営む株式会社である。

2  原告らは、平成七年八月二五日、東京家庭裁判所に対し、慶利の相続財産について限定承認の申述をし、右申述は、同年九月一八日受理され、同時に原告森川綾子が相続財産管理人に選任された。

3  慶利は、株式会社アム(以下「アム」という。)の代表取締役であったが、平成二年八月三一日、同会社が被告恵比寿支店(以下「被告支店」という。)から手形貸付で五〇〇〇万円を借り入れるに際し、右債務を連帯保証した(以下「本件連帯保証債務」という)。

右アムの債務は、手形の書換により弁済期限が平成八年八月三一日とされたが、同日現在の残債務四一〇万円については右期限に支払がされなかった。

4  慶利は、平成七年四月二八日、被告支店に、利率を年1.350パーセントとして、一〇八五万一一三〇円の定期預金をした(以下「本件預金」という)。

5  被告は、アムに対し、残債務を平成八年九月一〇日までに弁済するよう催告したが、同日までに支払がされなかったため、慶利の相続人である原告らに対し、平成八年九月一一日付け相殺通知書により、本件預金と本件連帯保証債務とを四一〇万円の対当額で相殺する旨の意思表示をし(以下「本件相殺」という。)、これは、そのころ原告らに到達した。

三  原告らの主張

1  被告のアムに対する貸付は、数度にわたって弁済期が延長され、その間順調に利息及び元金の支払がされてきており、被告主張の最終弁済期とされる平成八年八月三一日現在の貸付残高四一〇万円についても、通常であれば更に弁済期が延長されたはずである。しかるに、被告は、慶利の定期預金が存在することを奇貨として、あえて弁済期の延長をしないで相殺適状の状態を作り出したものであり、極めて具体的妥当性を欠く措置である。

2  本件相殺の意思表示は、原告らの限定承認の申述が受理された後に、1記載の経緯で意図的に相殺適状を作出された債権債務についてされたものであるところ、限定承認制度は、相続人が相続によって得た財産の限度において被相続人の債務を弁済する制度であるから、限定承認の申述受理後に相殺適状に至ったことを理由にして相殺を認めることは、その相続債権者を他の相続債権者に比して不当に優遇することになる。したがって、本件相殺は無効である。

3  原告らは、相殺適状に至る前に本件預金の払戻手続きをすることができたのであり、たまたま払戻手続きをしなかったという状況の中で、相殺適状に至ったという理由のみで本件相殺の効力を認めることは、正義に反する。

4  以上により、被告の本件相殺は、到底許されるものではない。

四  被告の主張

1  被告とアムは、平成七年九月五日の弁済期延長、手形書換に際し、次のとおり合意した。

(一) アムは、平成七年九月から平成八年七月までの一一か月間に毎月三〇万円ずつ弁済する。

(二) 残金の四一〇万円については、最終弁済期日であり手形の支払期日である平成八年八月三一日に一括して弁済する。

アムは、右最終弁済期日及び前提事実記載の催告による支払期限の同年九月一〇日までに残金の支払をしなかったから、同日の経過をもって期限の利益を喪失し、原告らの本件連帯保証債務と本件預金債権とは相殺適状を生じた。そして、被告には、弁済期の延長に応じなければならない法的義務はないから、被告が同月一一日にした相殺は有効である。

2  わが国の相続法の基本理念の一は、相続という不測の事態により、生前の権利義務関係に変更を生じさせないというものがあり、被相続人が存命していたならば行い得たはずの行為は、相続開始後においても行い得るものである。したがって、被告は、被相続人が存命であったなら、相殺適状に至った後は本件相殺を行い得るものであり、この理は、相続が開始され、限定承認の申述が受理されていても変わることはないというべきである。

3  限定承認の申述が受理されていても、当事者間の公平を期し、相殺権に対する信頼を確保する趣旨からも、自働債権及び受働債権の対立関係が限定承認の申述受理前に生じているのであれば、相殺は可能であるというべきであり、原告らが、たまたま限定承認したからといって、被告銀行の相殺権が奪われるとするのは、正義に反する。

第三  当裁判所の判断

一  本件における事実関係を、前提事実及び証拠(甲第一ないし第七号証、乙第二、第三号証、第四号証の一、二及び弁論の全趣旨)により時系列で整理すると、次のとおりとなることが認められる。

平成二年八月三一日

被告のアムに対する五〇〇〇万円の手形貸付(以後後記平成七年まで毎年にわたって書換が行われ、元金も一部弁済が行われている。)

慶利と被告との間で本件連帯保証契約締結

平成七年四月二八日

慶利の被告に対する本件預金預け入れ(満期は六か月後の同年一〇月二八日 以後自動継続)

同年六月一〇日

慶利死亡 相続開始

同年八月二五日

原告ら東京家庭裁判所に限定承認の申述

同年九月五日

前期手形貸付の手形書換(弁済期平成八年八月三一日)

同年九月一八日

東京家庭裁判所が原告らの限定承認の申述受理、及び、原告森川綾子を相続財産管理人に選任する旨の審判

同年一一月一五日

原告らから被告へ限定承認した旨の通知

同年同月二〇日

限定承認の官報公告

平成八年八月三一日

アムの被告に対する手形貸付による債務の弁済期到来

アムの支払なし

同年九月五日

被告からアムに支払催告(支払期限同月一〇日)

同年同月一一日

被告から原告らへ本件相殺の意思表示

二  また、前掲証拠によれば、アムは、被告との約束どおりに、平成四年三月以降元金の弁済分三〇万円と利息を毎月支払ってきており(甲第七号証)、被告は、アムとの合意に基づき、平成七年まで一年毎に弁済期の延長をしてきたことが認められる。

三  ところで、原告らは、被告が平成八年八月三一日の弁済期日に弁済期の延長を認めなかったことにつき、これは、本件預金との相殺をするためにあえて弁済期の延長をしなかったもので、従前の取扱いに照らして不当であり、具体的な妥当性を欠くと主張する。

しかしながら、弁済期を延長するかどうかは、債権者と債務者との合意に基づき決めるべきものであり、債務者が延長を希望する場合にも、債権者は、延長を認めるべき何らかの特約が存在するなどの事情がない限り、自己の判断で対応することでよく、必ずこれに応じなければならないものではないから、右特約の存在等の事情を認めるに足る証拠のない本件においては、被告が延長に応じなかったからといって、これが具体的妥当性を欠き、被告の相殺を無効にするものであるとは到底いうことができない。

四  次に、一の経過から明らかなように、被告は、相続人に知れたる債権者であり、原告らが限定承認の申述をした後に相殺適状に至った本件連帯保証債権を自働債権として、本件預金払戻債務とを相殺したものである(争いがない。)から、このような場合における相殺の効力について検討する。

1  民法の定める限定承認は、相続人が、相続によって得た財産の限度においてのみ被相続人の債務及び遺贈を弁済すべきことを留保して行われるものであり(民法九二二条)、限定承認の申述が家庭裁判所によって受理されると、限定承認者は、一切の相続債権者及び受遺者に対し、限定承認をした旨及び一定の期間内にその請求の申出をすべき旨を公告し(同法九二七条)、また、知れたる債権者には個別に申出を催告しなければならず(同条二項、七九条三項)、その期間内は、相続債権者及び受遺者に対する弁済を拒むことができる(同法九二八条)。右期間経過後、限定承認者は、申出のあった債権者及び知れたる債権者に対し、それぞれその債権額の割合に応じて弁済をすることになる(ただし、優先権を有する債権者の権利を害することはできない。同法九二九条)。

2  以上のように、限定承認者は、右の債権申出期間内に相続債権者からの弁済要求があったときにはこれを拒むことはできるが、これを弁済すること自体は、民法上は禁じられておらず、弁済もでき、したがって、弁済が行われた場合はその弁済も有効であると解すべきである(ただし、これにより、結果として他の債権者に損害が生じたときは、その債権者に損害を賠償する責任が生じる(同法九三四条)。)。

そして、右債権申出期間内に、相続債権者が、相殺により自己の債権をもって被相続人に対する債務を消滅させることについては、民法上何らの規定も存在しない。さらに、右期間経過後は1記載のとおり配当弁済がされるが、その段階において債権者がする相殺についても、特段の規定は存在しない。したがって、相続債権者は、相殺適状にある限り、その有する債権債務について相殺をすることは妨げられないものと一応考えられる。

3  ところで、この限定承認制度は、一種の清算手続きであり、相続人の利益と相続債権者及び受遺者の利益の適正かつ公平な保護を図りつつ、迅速、確実に相続財産の清算を行う趣旨のものである。したがって、その清算手続においては、相続債権者の債権の公平な弁済を確保することが必要とされる。その意味では、一債権者のする相殺は、限定承認による清算手続きによらずに自己の債権の優先的な満足を図るもので、他の債権者との関係で公平を欠く面があることも否めないから、限定承認の前記制度趣旨から許されないと解する余地もある。

4  しかしながら、他方、相殺の制度は、互いに同種の債権を有する当事者間において、相対立する債権債務を簡易な方法によって決済し、もって両者の債権関係を円滑かつ公平に処理することを目的とする合理的な制度であって、相殺権を行使する債権者の立場からすれば、受働債権についてあたかも担保権を有するにも似た地位が与えられるという機能を営むものである(最高裁昭和三九年(オ)第一五五号同四五年六月二四日大法廷判決、民集二四巻六号五八七頁参照)。したがって、被相続人に対し、債権を有するとともに同種の債務を負担する相続債権者は、その債権が限定承認の申述前に取得されていて、債権債務に対立関係が生じていたものである場合には、通常、自働債権及び受働債権の弁済期の前後を問わず、右債権債務が相殺適状に達したときに、これらを対当額で相殺することができるという合理的期待を有していたといえ、このような債権者の期待的利益ないし地位は、その後に限定承認がされたからといって、これを否定すべきものではないというべきである。

5 そうすると、限定承認の申述受理後に、自己の負担する債務との相殺をするために反対債権を取得したなどの、実質的公平の見地から相当でない場合(民法五一一条、破産法一〇四条参照)を除き、対立する同種の債権債務を有する相続債権者は、相殺適状に達しさえすれば、その時期が限定承認の申述受理後であっても、自己の有する反対債権をもって、その負担する債務と有効に相殺をすることができるものと解すべきである。

仮に、これが許されないとすると、その債権者は、対立する債権債務を有していて、相殺適状に至った場合にこれらを優先的に相殺しうるという他の債権者よりも実質的に有利な地位にいながら、その利点を生かすことができず、一方では債務の全額を支払わなければならない義務を負い、他方で自己の債権については按分的弁済を甘受しなければならないということになって、当該債権者に不当に不利益を被らせる結果になり、相当でないといわなければならない。

6  本件においては、前認定のとおり、被告の有する本件連帯保証債権自体は、限定承認の申述受理前(相続開始前でもある。)に取得されていたものであり、かつ、本件預金債務自体も限定承認の申述受理前(同じく相続開始前でもある。)に存在していたものである。したがって、被告は、慶利について相続が開始する以前、すなわち、限定承認の申述が行われる以前から、アムの支払が遅滞したときには、連帯保証人であった慶利の預金から相殺により弁済を受けるという期待的利益を有していたものともいえるから、自己の債権と債務が限定承認の申述受理前に対立関係にあった本件のような場合には、限定承認受理後であっても、相殺適状に達した後においては、その対当額において相殺することができるものというべきである。

7  なお、原告らは、本件預金については、相殺適状に至る前に払戻手続きをすることもできたのであるから、被告は、その後に相殺適状になったからといって、相殺によりこれを消滅させることは許されないと主張する。その趣旨は必ずしも明らかではないが、本件においては、現実に払戻請求が行われておらず(弁論の全趣旨)、したがって、被告において払戻請求を拒否していて相殺適状に至ったというような事情は認められないから、相殺適状に至った後において被告が相殺の意思表示をすることは、何ら不当なものではないというべきである。

第四  結論

以上の次第で、被告のした本件相殺の意思表示は有効であるというべきであるから、結局原告らの請求は理由がない。

よって、原告らの請求を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判官山﨑恒)

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